5.本当は、キミに触れるための口実
(テニス千石夢・東京恋愛専科シリーズ)


「あ、千石くん。今帰り?」
「そう。ユウコちゃんも?じゃ、一緒に帰ろ。」
「うん。」


 フルートケースを肩にかけ、俯いて下足箱から靴を出しながら、ふ、と視線を感じて振り向くと、そこには千石清純がいた。やっとこちらに気づいたね、そんな風ににかっと笑うと、大きなストライドでユウコの方へと歩み寄ってくる。清純が動いたことで空気がふわり、と揺れ、そして微かにオレンジの香りがした。先ほどまでの乾いた土のにおいではなく、涼やかなオレンジの香り。さっぱり爽やかな香りに、ユウコはそっと鼻をうごめかした。


「千石くん、いい香り。香水とかしてるの?」
「してないよー。さっきシャワー浴びたからかな。多分そのせいかも。」
「そっか。汗いっぱいかくもんね。」
「そ。男の汗臭いのって、すんげえじゃん。汗かいたまま電車乗るのって、どうもね。」
「いいね。その気遣い。」


 ユウコはそう言って、くすり、と笑った。そんなユウコを見て、清純もちょっと笑って、それから、「あー」と言いながら天を仰いだ。
 ユウコは小首をかしげる。


「何?」
「あのさあ、ユウコちゃん。ユウコちゃんはいつまで俺のこと、千石くん、って呼ぶつもりなわけ?」
「・・・君、千石清純君でしょ。間違ってないじゃない。」
「そうじゃなくってさ〜。」


 噛み合わない会話に、いらいらとしたように清純は髪の毛をかきあげ、それから何歩か先に歩いて、くるりと振り返った。


「俺たち、付き合ってるんだからさ。千石くん、じゃなくてキヨって呼んでよ。
 どーも、千石くんて呼ばれるの、他人行儀で嫌なんだよね〜。」


 その言葉が降ってきてから、いちにいさん、と3つ数えるうちに、ユウコの頬はかかかっと赤くなった。りんごみたいだなあ、そんなことを清純は思う。赤くてつやつやして、可愛い。いつもクールなユウコが見せる、こういう油断したような表情が清純はとても好きだった。


「ん、あのね。」
「何?俺何か変なこと言った?」
「もうちょっと、待ってくれないかな。心の準備が出来ないっていうか。」
「せんごくくん、って呼ぶよりキヨ、の方が短くて楽じゃない。簡単じゃん。」
「そうなんだけど。でもね、なかなか恥ずかしいっていうかさ。」


 赤くなった頬を押さえながら、ぽつりぽつりと話すユウコに、清純は心の中で微笑した。この微笑は彼女にばれてはいけない。照れ屋で強情な彼女は、きっと俺が笑っていることを気づいたなら、「からかってるのね」とご機嫌を損ねてしまうだろう。それは避けたい。せっかく彼女といる大切な時間を、無駄にしたくないし。
 だから、清純は、わざとちぇーっという顔をして拗ねて見せた。


「俺なんて、ユウコちゃんのこといつも名前で呼んでるのにー。」
「あなたは最初っから、わたしが中津川さんと呼べと言っても全然聞かなかったんでしょー!」
「だって、苗字呼びって、ホント他人みたいなんだもん。名前はさ、本当にその人個人を指し示すでしょ。 だけど、苗字はその人の家族や親戚や、いろんな人が含まれるじゃん。
 俺は、その人のことを呼びたいんだよ。」


 清純はしれっとそんなことを言った。だけど、その言葉は妙に説得力があって、さしものユウコも納得してしまう。
 そっか、そうよね。名前で呼ぶのはそういう意味があったのね。それはもっとも、だわ。
 だけど。


「だから、ね?」
「・・・・・・うん。」
「俺のこと、キヨって呼んで?」


 可愛らしく、でもやんちゃな男の子のような瞳で、小首をかしげて問いかけられて。ユウコも頷こうとした。頷こうとして、実際キヨ、と呼びかけようとして。
 でも、ドキドキが邪魔して、出来たことはただぼんやり、と唇を少し開いただけだった。


 やっぱり、照れくさい。
 だって、今までそんな風に男の子のこと、名前で呼んだことないんだもの。初めての経験なんだもの、戸惑っても当たり前でしょ?
 あうあう、と声にならない呟きを零して、それからじぃっと上目遣いにユウコは清純を見上げた。清純は、なあに?とばかりに笑いながら眉を上げる。


「今、すぐはなかなか難しい、かも。慣れてないから。」
「うん。」
「でも、そう呼ぶようにする。」
「うん、ありがと。」


 清純は、にっかり、と笑ってそれから小指をぴん、と立てた。


「約束、ね。ユウコちゃん。」
「うん。」


 ユウコも、こくり、と確かに頷いた。そしてそっと小指を清純の小指に絡める。それは、触れるか触れないか、そんな微妙な感じにそっとしたものだった。そんなユウコを逃がさないよ、と言わんばかりに清純はさっと全ての指を絡めて、そしてつないでしまう。きゅっと全ての指を絡めてしっかりと手をつながれて、意外に清純の手が柔らかくて暖かで、ユウコは恥ずかしくてわたわたしてしまったけれど、それでも怒って振りほどいたりはしなかった。
 彼はずるいわ。いつだって、わたしの数歩先を歩んで、わたしを振り回す。今も、片目を瞑ってわたしに笑いかけたりしちゃって。わたしが怒れないなんてこと、とっくに知ってるんだわ。


 あの爽やかなオレンジの香りが、今度はずっと近くからユウコを包んだ。それは、今までよりずっと清純の近くに居るんだ、そういうことをユウコに確かに認識させた。


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このドキドキがなくなる日、そんな日はきっと来ない。