寒い。
 寒すぎる。
 俺は、コートの襟を立てて足早に道を歩いていた。ここティンバーは世界の中で割と温暖な地域であると思うが、それでも冬は寒いと思う。雪は確かに降らない、だけど吹きさすぶ寒風は容赦なく吹き付けてくる。乾燥も酷いから、喉もいがらっぽい。
 俺の家は、ティンバーの市街地の中心地に割と近いところにあった。立地はこの上なく良いが、手頃な家賃を求めたおかげで古くてキッチンもない。トイレと洗面所は共同だ。裏通りに面していて、日当たりもそれほど良くない。いくら勤めていて昼間は家にいないとはいえ、もうちょっといい家に住みたいなあとここ最近は思うようになった。金が貯まったら絶対引っ越そう。最近思うことは、そればかりだ。


 前述のように、俺の家にはキッチンがない。だからメシは買って帰るか食って帰るしかない。ここのところ昼は激務でサンドイッチをかっこむことが多いから、夕飯くらいはマトモなもの食いたいな。そう思って、俺は帰り道の裏通りにこそりとあるパブに入った。
 ふと入口横にあるネオンの看板を見れば、そこには流麗な文字で「アフローラパブ」と書かれていた。こんな裏道にあるくせに、随分洒落た名前だな。俺はそう思いながら扉をくぐり、店内に足を踏み入れた。しかし。


「うわっ!!」


 ドアを開けてすぐそこには、階段があったらしい。俺はそれに気づかず普通に足を出し、つるり、と階段で足を滑らせてつんのめってしまう。咄嗟に傍のテーブルに手を伸ばした。それは俺の体重を支えきれなかったのだろう、見事にひっくり返り、テーブル上に置いてあった小さな花瓶やらソース瓶やら塩コショウやらがドサドサと俺の上に落ちてきた。


 ーーーーー最悪、だ。
 このコート、高かったんだ。去年のボーナスで奮発して買ったやつなのに、ああ、何てことだろう。裾部分にかけてべっちょりとソースがかかってしまっている。クリーニングに出さなきゃかよ。年末前の忙しい時期だってのに、参ったな。


「大丈夫ですか?」


 俺はそのとき、すっごく機嫌の悪い顔をしてたと思う。だってそうだろう。気に入りのコートはぐちゃぐちゃで、きっとクリーニング代は高くつく。まだまだ新米社会人の俺には厳しい出費だ。
 ああ?と思わず剣呑な顔で、柔らかく心配げにかけられた声に振り返った。
 そこには、高校生くらいだろうか、黒髪を長く伸ばした愛らしい少女がいた。艶々と真っ直ぐに下ろされた髪も、どことなく潤んでいるように見える瞳も全て黒い。肌は白くて頬は薔薇色でふっくらしていて、まさに美少女、と言うしかないような風貌の子だ。彼女は、手に濡れた雑巾を持っていた。そして俺のコートをつまみ上げ、トントンと叩くようにしてソースの汚れを落としていく。
 俺は慌てた。


「す、すみません!!大丈夫です、自分でやりますから!」
「気にしないでください、すぐに落とせば多分シミにはならないから。」


 彼女はそう言いながら手を休めることはなかった。コートの裾を彼女に握られているから、転んだ時のままみっともなく座り込んでいるままだ。俺はどうにも手持ち無沙汰で、所在無さげな情けない表情を浮かべることしか出来なかった。
 やがて、ふわり、と花の甘い香りがした。俺のコートの汚れを熱心に取ってくれていた彼女が顔を上げたのだ。俺の視線に気がつき、にこっと花が綻ぶかのように笑った。


「ソース、落ちましたよ。このコート、撥水加工がまだ効いていたみたい。すぐにクリーニングに出せば大丈夫。良かったですね。」
「・・・・・・。」
「あの?」
「あっ、ハイ!わざわざ有難うございました!!」


 傍から見れば、これ以上はないと言うほど間抜けな状況、表情で俺はひっくり返ったかのような声音で返事をした。彼女はといえば、心底心配そうな顔で俺を見つめている。
 それが、出会いだった。


***


 ギイ、とアフローラバーの扉を開ける。薄暗い店内に俺は目を細めた。青い色調の中、黒い髪を揺らして彼女は女主人と笑い合っていた。
 女主人が俺の来店に気づき、いらっしゃい、と声をかける。彼女もこちらを見て、そして俺を見つけてほんわりと微笑んだ。
 別に俺は彼女と恋人同士でも何でもない。ただ、行きつけとなったこのパブで時折会うだけの、まさに知り合い程度の付き合いだ。毎日会う訳ではない。例えて言うなら、1週間に1、2回程度。仕事帰りに寄るのだから、時間帯ももちろんバラバラだ。待ち合わせしてる訳じゃない。たまたま偶然一緒になるだけ。


「こんばんは。」
「こんばんは。いらっしゃいませ。またお会いしましたね。」


 会えば交わされる、いつもの会話。目の前の愛らしい黒髪の女の子は、本当に偶然に驚いているかのように小首をかしげて、それでもにっこりと笑ってくれる。その表情が、仕草が非常にあどけなくて、俺もつい微笑んでしまう。心が暖かい。そう感じるのは、寒空の中歩いてきたからだけじゃなくて、多分。
 俺がカウンターの席に腰掛けると、女主人が今日は何にするか聞いてきた。この店はパブのくせに、夜も定食セットみたいなものを用意している。日替わりのそれは、どこか家庭的な味がして美味く、盛りも良かった。いい店見つけた、そう思っている。
 今日の日替わりは、暖かそうなシチューだった。それを頼むと、俺はそっと黒髪の少女を見つめた。彼女はにこやかに笑いながら、時折客たちに料理や飲み物を運んでいる。リノアちゃん悪いね、そう呼びかける中年男の声が聞こえた。


「彼女、バイトなんですか?」


 シチューを温めている女主人に俺は尋ねた。女主人は俺の視線の先にいる彼女を見て、ああ、と笑った。


「違いますよ。リノアは昔からの知り合いでね。今はティンバーにいるから、時たま遊びに来てくれるんですよ。」
「そうなんですか。いつも料理を運んだりしてるから、てっきりバイトかと思いました。」
「やらなくていいって言ってるんですけどねぇ。暇だから、とか言って手伝ってくれるんですよ。昔からそういう子でね。」
「そうなんですか。」


 女主人はシチューを盛り付け、パンとサラダを添えてどうぞ、と差し出した。湯気がもうもうと立っているシチューは火傷しそうに熱い。俺はふーふー、と冷ましながら口にする。


「今日の日替わり、シチューなんだ。おばさんのシチュー美味しいよね。」
「リノア、あんたも食べてくかい?今日は1人なんだろ?」
「そうなの。じゃあご馳走になっちゃおうかな。有難う。」
「どういたしまして。いつも手伝ってくれるしね、お礼さ。」


 カウンターに戻ってきた彼女は女主人とそんな会話を交わしていた。俺はそちらを伺い見る。彼女がにこにこと笑っているのが見えた。この女の子はいつだって、朗らかで暖かで、可愛らしく笑う。シチューのせいだけじゃない、ほんわりとした暖かさが胸いっぱいに広がった。
 この店に通うことが、ここ最近の俺の楽しみになっている。今日はいるだろうか、そんなことを思いつつバーの扉を開く日々が日常と化しつつある。仕事の合間、眠る前、昼食を食べているとき、そんな何気ない時間の隙間の折に思ってしまうこと。今日はいるのだろうか、今度は会えるのだろうかという僅かな期待。
 そんな現象と心情に、どんな名前がつくのか。それは何と呼ぶべきなのか。
 ーーーーー心当たりがありながらも、俺はそれに気づかないふりをずっとしている。


 彼女がくるり、と俺の方を見た。少しドキリ、として俺はシチューを見つめているふりをする。
 今日の店内は少し混んでいた。テーブル席はもういっぱいで、カウンター席が空いているだけ。今は19時過ぎたあたりで、週末だった。これから客はもっと増えるだろう。場末の裏路地にある割に、このバーは人気店なのだ。
 彼女がそっと俺に近づいた。ふわり、と花の香りがした気がした。


「すみません、隣いいですか?」
「ど、どうぞ!」


 彼女の問いに、俺は心持ち焦って即答する。彼女は少しだけ驚いた瞳をしたが、すぐに柔らかく微笑みながら、有難うございますと告げ、俺の隣の席に腰掛けた。彼女が座るときに立った、キイ、と椅子が僅かに軋む音。それが妙に大きく聞こえて、俺は落ち着かない気分を抱えた。
 隣、ちょっと動けば触れてしまえるほど近くに、彼女がいる。その偶然に、胸がやたらと煩い音を立てた。ちらり、と彼女を伺った。彼女は楽しげに黒い瞳を揺らめかして女主人の手際を見ていた。きちんと両手を膝に揃えてすっきりと美しく椅子に腰掛けているのに、表情や仕草はまるで子どものようなそれで。大人と子どもの間にいる少女らしさが、匂いたつようにそこにある。やがて俺の視線に気がついたのだろう。彼女は俺の方を向き、そしてにこりと微笑みながら首を傾げた。綺麗な黒い瞳はどことなく潤んでいて、頬は薔薇色で、唇は小さくふっくらしていて。思わず手を伸ばしてしまいたくなるほどに、それは。
 俺は、ブンブン、と頭を振った。何を考えているのか。目の前の、どう考えても10代後半の少女に感じることではない。新米とは言え俺はもう社会人で、彼女よりおそらく10歳くらい年上だろう。年端もいかない少女に欲を示すだなんて、犯罪だ。俺は焦るしかない。


 俺の不可解な仕草に、彼女は不思議そうな顔をした。やがて、彼女の前にも俺と同じシチュー定食が置かれた。彼女はそっと手を合わせて、いただきます、と小声で言った。彼女が手を合わせた瞬間、薄暗いこのパブの中でささやかに光るものが俺の目に入る。それは、ほっそりとした白い彼女の左手の薬指にある、小さな指輪だった。シルバー色のそれは、真ん中に蒼い小さな石が入っている。可愛らしいデザインリングだな、と俺は何気なしに思った。
 もちろん、年頃の女の子が指輪をする意味、それは知っている。年齢的にまさか、既婚者の指輪という訳はないだろう。きっと彼女には彼氏か何かいるのだ、それは分かっている。分かっていはいるけれど、それでも期待を、しないではいられなかった。俺自身が彼女くらいの年齢だった頃、女の子と付き合ったり別れたりは割と頻繁だった。いくらずっと好きでいる、と思っていても忙しさから会わなくなってしまったり、もっと好きな人が出来てしまったり、実際付き合ってみたらそれほど相性が良くなかったとか。そんな簡単な理由ですぐに別れたりすることを繰り返した。恋に憧れる年齢だったからこそ、とりあえず気になったら付き合ってみたりしてた。
 ーーーーー彼女が同じだとは、言えないのだけど。
 それでも、期待、してしまっているのだ。彼女と会える、その偶然に。彼氏がいるのだろう、それを知ってもまだなお、未練がましく、情けなく、期待を崩すことは出来ない。


 彼女が小さく口を窄めながら、ふーふー、とシチューを掬って冷ましていた。やがてそっと口をつけて、熱っ!と小さな声を漏らす。子供みたいで酷く愛らしかった。
 ふと、彼女は俺を見た。そして面白そうに笑う。


「もしかして、熱いの苦手だったりしますか?」
「え?」


 言われて気がついた。俺は隣の彼女のことを見てばかりいて、すっかり自分のメシを疎かにしてしまったのだった。先程までグツグツと煮えたぎっていたシチューは、もう穏やかな温かさに変化しているようだ。薄くい表面に張った膜が、暫くスプーンを動かしていなかったことを如実に表す。俺は慌てたようにスプーンを持った。


「そ、そうですね。食べるのが下手で、口の中火傷をすることが多いので。」
「シチューはトロミがあるから、余計に熱いんですよね。わたしも良く火傷しちゃいます。」


 何気ない会話だった。見ず知らずの人間が普通に交わすようなそれだった。しかし、俺はやはり何気ない会話にすら、全神経を集中させてしまう。隣にいる彼女の気配、それは痛みを覚えるほど俊敏に感じてしまう。
 この、感覚と感情の名前など。
 もうとっくに分かっている。分かっていないふりをしているだけだ。


 ここはバーなので、夜はさすがにムード溢れる雰囲気に溢れている。少し薄暗い照明に、穏やかで緩やかな音楽。静かすぎる、そんなことはなく、今日は店内にさざめく客の笑い声や話し声、それで溢れている。
 それでも、俺は周りに音が溢れているなど、そんなことは微塵も思えなかった。シチューをただじっと食べているだけなのに、微かにスプーンが立てる音や、パンをちぎる音、それらが酷くクリアに聞こえる。彼女とは話を弾ませるほど親しい間柄ではない。それでも何か話をして、そして次に繋げたい、そう願う浅ましい期待で胸を膨らます。何を話せば、彼女は笑うだろうか。嬉しそうな顔をするだろうか。そんなことばかり頭を巡って、美味いはずのシチューの味も何も分からない。


 黙々、と食べ続けていたからだろうか。やがて俺の食事は終了してしまった。いつもはここでお勘定を済ませてさっさと帰宅する。仕事帰りは早く帰宅して、早く休みたいからだ。早くくつろいだ服に着替えたいし、風呂にも入りたい。それは自然な欲求だ。
 女主人は、いつもの俺の癖を熟知している。俺が食べ終わったのを見て、さっさと皿を下げ、そして勘定を告げた。それは彼女なりのサービスだった。いつもメシだけ食って、酒を楽しんだりすることもない俺を知っていて、早く帰宅出来るようにしてくれているのだ。そういや以前、女主人に食後に一杯飲むかと聞かれたことがあったが、それをにべなく断ったっけ。早く帰りたいから、メシだけでいい。そんな言葉で。
 今日は、彼女が隣で食事をしている。いつも、店にいても帰り際であったり、すぐに帰宅してしまったりする彼女が。隣で腰を落ち着けて食事をしている。それはやっぱり、チャンスって奴じゃないのか。少しでも親しくなれるよう、神様がくれたささやかな。
 女主人に勘定をとりあえず支払って、俺は彼女を見た。彼女は何か?と首を傾げた。


「あの。」
「はい。」


 俺が声をかけ、そしてそれに彼女が応え。そのとき、またバーの扉が開いた。ギイ、と音を立てて開かれたそれに、俺は心なしかギクリとした。極度の緊張からか、ホンの少しの物音にすら怯えてしまった。
 彼女も、扉の方を振り返った。一瞬その黒曜石のような瞳を丸くして、そして。
 とても、嬉しそうに。とても、愛おしそうに。とても綺麗に。
 微笑んだ。


「スコール!どうしたの?」
「仕事が案外早く終わった。家に帰ってみたらリノアがいなくて、多分ここだろうなと思ったから。」
「迎えに来てくれたの?有難う。」


 扉を開けた男は、スタスタと淀みない歩調で彼女の隣へと近づいた。年齢的には、俺よりも年上の、ちょうど直属上司と同じ年齢くらいの男だった。さらさらとした砂金の髪と、額にうっすらと走る傷跡と、そして何より澄み切った蒼い瞳が酷く印象的だった。


「こんなに早く帰ってくると思わなかったから、わたし、お夕飯頂いてたの。ごめんね。」
「いいよ。俺も予想外だったし。ついでだから俺も食べていく。
 すまない、俺にも日替わりひとつ。」
「はいよ。」


 当たり前のように隣に腰掛けた男に、彼女は少しだけ肩を竦めて申し訳なさそうに笑った。そんな彼女に穏やかな微笑みを浮かべ、男は女店主に注文する。彼女は嬉しそうに笑って、またスプーンを掬ってシチューを頬張った。
 先程から俺、彼女と立て続けに日替わりを注文しているから、シチューは温める必要もないほど熱かったらしい。すぐにパンが焼けるのと同時に、女主人は男に定食を差し出した。男がそれを受け取る。そのとき薄暗い店内の中で、男の左薬指もささやかに光った。
 それは、先ほど見たものと同じ光。
 小さなシルバーのリング。真ん中に、小さな黒い石が埋め込まれたそれ。彼女と全く同じ意匠の。
 彼女のような、少女ではなく。壮年の男性がするには、酷く繊細で綺麗なそれが意味するところ。


 ーーーーー嘘みたいな話だ。
 でも、真実でしかないだろう。彼女は。彼女は、人妻だ!


 俺より年上の男が、こんな少女を妻にしてるのか?そりゃ犯罪ってもんじゃないのか。随分とイイ男だし、何も年端もいかない子に手を出さなくてもいいだろうに。あれか、昔話にあった、少女を自分好みの女性に育てていくとかそういう奴なのか?


 頭の中を、様々な感情が怒涛のように流れていく。
 それでも、俺はもう分かっていた。分かってしまっていた。
 男が彼女を妻にしているということ。少女を弄んでいるわけではなく、ただ本気なのだろうということ。幼くても自分の妻にせざるを得なかった程。取り巻く環境も理由も顧みず、ただ本気で手に入れたのだろうということ。
 期待して伺うだけの自分とは、違うということ。


 彼女がふと、俺を見た。


「さっき、何か言いかけていらっしゃいましたよね?何ですか?」
「・・・・・・いえ、何でもないんです。あまり遅くなると、ここいら辺りは路地裏だから危ないですよ、と言いたかっただけで。お迎えが来てくれたのなら、大丈夫ですね。」
「わざわざ心配してくださって有難うございます。」
「いいえ。では、お先に失礼しますね。」
「はい、さようなら。」


 俺は彼女にひとつぺこりと会釈をした。そしてそのまま扉の方へと向かう。扉を開けて、店を出ようとしたとき、もう一度振り返って彼女を見た。彼女はもう俺を見てはおらず、隣の男と何か楽しそうに話をしていた。話とともに動かされる手が、やはりちいさな光を反射させている。薄暗い照明をしっかりと受け取って反射する、左手の薬指。
 ギイ、と静かに扉を開けて、外へと踏み出した。やはり吹き付ける寒風は厳しくて、思わずコートの襟に首を竦める。暖かい食事を頂いたばかりだというのに、冷たい空気は容赦なく俺から暖かさを奪っていく。


 ーーーーーこれは、恋じゃない。


 俺は早足に家路に向かう。外は寒い。寒すぎる。早く自宅に戻って身体を暖めたい。


 ーーーーーまだ、恋じゃない。期待なんて、何もしていない。


 まだ、何も始まってなんかいない。俺は、何も失っていない。
 だから。
 だけど。


 もう暫くは、あの店には行かない。
 とりあえずは、早く金を貯めてキッチン付きの部屋に引っ越そう。そう固く決意した。



end.