ーーーーーあれ、彼がいない?


 手洗いから戻ってみると、元いた場所に、目当ての蒼い瞳の彼はいなかった。リノアはきょろきょろ、と忙しなく辺りを見回す。
 やがて一回り視線が辺りを巡る前に、目的の彼は見つけられた。さらり、とした砂金色の髪、すらりとした立ち姿だから、遠目でもすぐに分かる。スコール、と声を上げて手を振ろうとして、しかしリノアはそこで竦んでしまった。何故ならスコールは1人ではなく、おまけつきだったからだ。


「んんん!?」


 わたしがちょっと離れた間に、もうナンパなんかされてる。そう思って、リノアは初め物凄くおかんむりだったのだが・・・、よくよく見て、そうではない、ということに気づいた。スコールと並んで話をしていた女性、それはとても綺麗な黒髪を長く垂らした人だが、しきりに彼に向かってお辞儀をしている。どう見ても、彼を口説いているとか熱っぽい視線で誘うとか、そういう雰囲気ではない。(その位、リノアにも分かるのだ)。さらにそんな彼女の傍には、小さな黒髪の女の子と、さらに幼いこげ茶色の髪の男の子が、半べそをかきつつ立っているとくれば。


 ーーーーーこれは、迷子の救出ってことかな?


 あの、スコールがねぇ。
 母を捜して泣いている二人の子どもを助けるなんてねぇ。
 ついこの間まで、「子どもは苦手」とか「誰かを助けるなんて気はない」とか「自己責任で何とかしろ」とか平気で言ってた人だったのにねぇ。
 思わず、にやにやとした笑いが止まらなかった。しかし、この表情を彼が見ればきっと、臍を曲げてしまうに違いない。
 頑張れ、わたしの表情筋。
 意識しないでも緩んでしまう頬を必死で持ち上げ、リノアはすたすた、とスコールに近づいた。


「リノア。」
「スコール、お待たせ。」


 足音で、近づいてくる人間がリノアだということが分かったらしい。スコールはくるりと振り返りながらリノアの名前を呼んだ。自分から声をかけなくても、自分の存在を確かに感じ取ってくれる。何でもないような仕草でいて、それが嬉しい。リノアは にこり、と微笑んだ。
 リノアが来たことで、彼の待ち人が現れたのだと言うことに気がついたのだろう。2人の子の母親は、そっと子どもたちに促した。


「さあ、お兄ちゃんにもう一度、ありがとうを言って?」
「「ありがとう。」」
「元気なのはいいが、さっきみたいに2人で飛び出していくなよ。お母さんを心配させたくないだろ?」
「うん、分かった。」


 母に促されてぺこり、とお辞儀をしてお礼をする2人の兄弟がとても愛らしくて、リノアは思わず目を緩めた。スコールはがしがし、と子どもの頭を撫でてやりながら注意をしている。子どもに対する注意なのに、それはどこかSeeD候補生に対する訓戒のようにも聞こえて、スコールの不器用さをリノアは改めて認識した。
 ばいばい、と手を振って去る子どもたちを見送ってから、リノアはくるりとスコールに振り返った。改めてにこり、と笑いかける。その仕草に、どくん、とほんの少しだけ心臓が大きく鳴ったような感慨をスコールは抱いた。慌てて僅かに気恥ずかしげな感情を無表情の仮面に覆い隠したが、リノアはそれには気づかなかったようだ。いつもどおり、スコールに気負いなく呼びかける。


「スコール、ただいま。」
「・・・・・・おかえり?」


 いきなり、ただいま、と言われて、スコールは暫し面食らった。何故、ここでただいま?その言葉が出た意味がイマイチよく分からない。しかし、ただいまと言われればおかえり、と返すのが道理で。とりあえずおかえり、と返してはみたが、心の中にある疑問はそのまま声音に出てしまったらしい。リノアはぷうっと頬を膨らませた。


「何、今の疑問形がついたようなおかえりは。」
「・・・・・・何でいきなり、ただいまと言われたか分からなかったから。」
「だって、わたしスコールのところに戻ってきてから、一度も挨拶してなかったじゃない。だから、ただいま。」
「なるほど。」


 リノアの言葉を聞いて、スコールは破顔した。リノアはいつだって挨拶を疎かにしない。通りすがりの人、目上の人、知り合い、目が合えば必ず声をかけ、挨拶をする。これ以上ない、と思えるほど親しくなったスコールにも、挨拶をおざなりにすることはない。いつだったか、彼女は言っていた。挨拶は、貴方のことをちゃんと思ってますよ、という印なの、と。確かに、彼女からにこやかに挨拶をされるたび、心の中がほんのりと温かくなるような気がする。思いを、愛を、たくさん降らせてもらえているような気がする。
 自分が彼女から思いの欠片を惜しみなく注いでもらっているように、自分も彼女にきちんと返せているだろうか。自信はないが、そう出来ているといい。だからスコールはほんのりと笑顔を乗せる。それを見て、リノアも嬉しそうに笑って、スコールの手をとって歩き始めた。


 きゅっと、小さな指がスコールの指に触れて、絡まる。
 少し力強くスコールが握り返せば、リノアからもしっとりとした力で返された。


「そういえば、さっきの子たち。迷子だったの?」
「迷子じゃないな。あの兄弟2人、このロビーで駆け回ってたんだ。多分鬼ごっこかなんかしてたんだろ。で、下の男の子の方が、逃げるのに夢中になってて、前を見ないで疾走しているところに、荷物を山ほど載せた台車を押すポーターが・・・・・・。」


 その緊迫した状況をリノアはすぐに理解したのだろう。首を竦めて、ふるり、と小さく身を震わせる。


「あ、危ない〜!わたし、想像するだけでも怖い。
 でも、スコールが助けてあげたんだよね。」
「ああ。まだ小さい子だから、抱き上げるにも軽くて助かった。」
「そんな台車に激突したら、小さい子なんて大怪我しちゃうもんね。」
「荷物の下敷きになってもマズイしな。」
「うん、良かったよ。何も無くて。スコールありがとう。」
「・・・・・・なんで、リノアがお礼を言う?」


 真面目腐ったようにそうお礼を言うリノアに、スコールは苦笑した。それを見上げて、リノアは少しだけ眉を上げる。自分の受け答えは、どうやら彼女のお気に召さなかったらしい、そのことに感づいてスコールはリノアに視線を寄せた。リノアは、スコールの、説明しろ、との意図をすぐに理解したらしい。何でもないようにさらりと言い放った。


「だって。スコールのおかげで、あの子達痛い思いや怖い思いしないですんだでしょ?それは、わたしにとってもとても嬉しかったから。だからありがとう。」
「ふうん?」
「あ、何か納得してない?」
「内容としてはよくは分からないが、言葉としては理解した。」
「何ソレ。」


 スコールから返って来たこれまた真面目腐った返答に、今度はリノアが眉を寄せて苦笑した。わたしにはスコールの言ってることが難しくて分からないわ。嬉しいときにありがとうって言うの、普通の、当たり前のことじゃないの?わざわざ問い返すようなこと?
 でも、その疑問はスコールには言わないでおいた。自分が「普通じゃない」ということに敏感なリノアには、「普通と違う」と言われることがどれだけ心に傷をつけるか知っているからだ。例え、本人に悪意が無くても、ただ口に出しただけのような些細な呟きだったとしても。「普通でない」という言葉は確実に、心の柔らかな弱い部分を抉っていくのだ。そしてそのときつけられた傷は、治っても何かの拍子にしくしくと疼いてしまう。それは、とても辛いこと。その辛さを知っているから、スコールにもそれを味あわせるなんてこと、出来る訳ない。
 リノアは改めて、きゅっとスコールの手を握り締めた。骨ばった長い指は、リノアの指で包むには大きすぎて、どうしても掌から溢れ出してしまう。


 ーーーーーでも、それでいいんだわ。
 わたしの掌は小さくて、全てのものなんて抱えきれない。溢れて当たり前なの。相手のことを全部手に入れるなんて出来る訳無いわ。足りないものがあるから、もっと欲しいと思う。もっと近づきたいって思う。
 それは、幸せなこと、でしょう?


「今日のスコール、何か『何故何坊や』みたい。」
「そうか?」
「うん。でも、嬉しい。わたしに興味持ってくれてるってことだもの、それ。」
「・・・・・・そうか。ありがとう。」
「うふふ、スコールもありがとうって言った。」
「嬉しいときに言う言葉、なんだろ、それは?」
「正解です!」


 ころころ、と嬉しそうにリノアは笑う。その姿、そしてしっかりと繋がれている指を感じて、スコールもほんのりと笑みを零した。
 今の自分は、まさに子どものようだとスコールも自覚している。何もかもを知り、一人で生きていけると思っていた自分は本当に、何も知らない赤子のままだった。世界は嫌になるほど広くて、人は自分では思いもつかないほど様々な感情を抱えて。それら全て、自分ひとりの小さな内宇宙に取り込める訳がない。ソレを知らず、ただ自分ひとりで生きていけると思っていた自分は、翻せば何も知らなかったからそう思えたと言えた。
 今、自分は、リノアや様々な人、仲間に、たくさんの気持ちを教えてもらっている。そして、様々浮かんでは消える疑問をひとつずつ解いている。そうやって時を積み重ねて、きっと自分はかつて希った「大人」へと変貌していけるだろうと思う。そう、未来に希望を持てることは素晴らしい。
 リノアが、ふと思い出したように、あ、と呟いて、スコールの顔を覗き込んだ。


「ねえ、でも、さっきの子たち。ちょっとスコールみたいだったよね?」
「そうか?」
「うん。茶色の髪の男の子と、黒髪のお姉ちゃん。ちょうど、スコールとエルオーネさんってこんな感じだったのかなあって思った。」
「そうだったかもな。覚えてないけど。」


 にこにこ、と楽しそうに微笑みながら、リノアは優しげな声でそう話す。まるで、小さかった頃のスコールを今慈しんでいる、といった風に。リノアが会ったことのない、スコール自身ですら覚えていない、過去のスコールすら愛している、そう思ってくれている。彼女の思う真実は違うかも知れないけれど、そんなことをスコールは確かに感じ取って。


 少し。
 ほんの少しだけ。
 涙が、出そうになってしまった。


 エルオーネのことを思い出したのも最近で、だからこそ彼女が自分の傍にいてくれた頃やいなくなってしまった後のことはあまり記憶にない。朧げな心象風景が僅かに心に浮かぶだけだ。それは幸せなのか不幸せなのかは分からない。辛いことばかりだけではなく、確かに幸せだった記憶もあったはずなのに、遠い過去は何もかもが曖昧でしっかりと現実化出来ない。喪失感すら、この胸には去来しない。
 それでも、リノアが、自分すら覚えていないものを愛してくれるのなら。そこにいた、と認めてくれるなら。
 それなら、自分もきっと、認めることが出来る。
 他力本願だと思うが、彼女に依存しすぎていると思うが、それでも。足りない記憶の欠片だけではどうにも動けないのだ。自分ひとりでは、どうすることも出来ず困惑するしかない。不確かなアイデンティティは、不安と怖ればかりを引き寄せる。それに呑まれて、自分自身の境界すら曖昧になって無へと消えていく瞬間を、スコールは確かに経験した。そして、そこから助け出してくれたのは、リノアだ。


「・・・・・・やっぱり、昔のことは、今でもあんまり思い出せない?」


 リノアが、そっとスコールを伺うように見上げながら尋ねた。リノアは、スコールたちが長年G.Fをジャンクションしていたおかげで、記憶障害を持っていることを知っている。SeeDという仕事上、G.Fを外す訳には行かない、戦いに勝っていくために、G.Fのもたらす恩恵を捨て去る訳には行かない。リノアも、そういう仲間たちの事情を理解しているから、「G.Fを外せ」と言うことは無かった。それでも、やはり彼女は思ってしまう。


 どうして。
 どうして、自分が歩いてきた軌跡を。何もかも現れては消えていくこの世の中で、「自分がここにいた」と、誰も知らなくても、理解しなくても自分だけは覚えていられる、そんな宝物のような気持ちを。
 どうして、貴方たちはなくしていかなければいけないの。
 きっと、大事な思い出も、いとおしい気持ちも、心も、たくさんあったはずなのに。それをなくして平気でいられるのは、それらがあったことすら覚えていないからであって。
 何て。
 何て、かなしい。


「まあ、昔のことは覚えてるような覚えてないような・・・・・・。でも、皆誰しもそんなもんじゃないか?
 例えば、リノアが5歳のとき。何をしてたか、何が好きだったかとか、あんまりはっきりとは言えないだろ?」
「そう、だね。」


 リノアの逡巡に気づいているのかいないのか、スコールは明るく言葉を続けた。リノアもくすり、と笑みを浮かべて同意して見せた。


 ーーーーーそう。記憶を失ったことに、過去を思い出せないことに嘆いていいのは彼らだけ。わたしが嘆くのは、それは安い同情でしかないのだわ。


 リノアはそう思い、ともすれば崩れてしまいそうな感情を必死で引き締めた。


 だって、わたしだって。
 もし皆が「わたしが魔女だ」ということを嘆いてみせたとしたら・・・・・・、きっと、嬉しいと、有難いと思う反面、やっぱりとても傷つくし、悲しいわ。同情してくれる、ということは、わたしを思いやってくれているということだから、それに対しては嬉しいの。だけど、悲しまれることで、自分の境遇が人の悲しみを呼ぶほど惨いのだということを、改めて突きつけられているようで。同情してくれる彼らの意図ではないにしろ、それは確かにわたしを酷く傷つける。
 どうにもならない自分の境遇、その痛みを抱えて、それでも前に進んでいこうとしている自分が、まるで滑稽で哀れなもののように思えてしまう。


 ならば。わたしのすべきことは、ひとつだ。


 リノアは繋いだ手に、もう一度きゅっと力を込めた。スコールがリノアを見下ろして、小首を傾げる。そんな彼に、にこり、と笑った。


「今の気持ち、ずっと時間が経っても覚えてるわ、わたし。」
「リノア?」


 リノアの言葉は、スコールにとって唐突過ぎたのかも知れない。きょとんと、蒼い瞳を少しだけまるくしてスコールはリノアに問いかける。リノアは笑みを返しながら、一つ一つ、噛み締めるように言葉を紡いだ。


「一つ一つのやりとりとか、どうしてそう思ったのかとか、そういう細かいことはきっと忘れてしまうと思う。全てを覚えている、なんてそんなこと無理だもの。
 でも、スコールと一緒にいて、あったかくてふわふわして、心がきゅんっとするようなこの気持ちは、多分忘れない。未来に何があったって、絶対に覚えている。わたし、そう思うわ。そうだといいと信じるんじゃなくて、そうなると思うわ。」


 届くといい、とリノアは願った。
 今、自分が抱えてる想いも。なくしてしまった過去を悼むより、未来の希望を話すことが出来る幸せを。どんなに忘れてしまうものがあっても、一番大本の気持ちはなくならない、ということを。だから、記憶をなくすことに怯えなくていいのだ、ということを。


 リノアの言葉に、スコールは少しだけ沈黙して見つめ返した。やがて、冷たそうな蒼い瞳にほんのりと優しい温度が乗り、緩やかに表情が解けていく。


「・・・・・・俺も、多分。」
「うん。」


 リノアの言葉に、スコールも言葉少なく同意した。きっとリノアの言った言葉は、スコールにしたら酷く乙女チックでロマンチックすぎて、恥ずかしくなるようなものだろう。それでも、それを否定せず、揶揄することもなく、ただリノアの伝えたい思いを理解してくれた彼に、リノアはやっぱり胸がきゅん、と疼いた。


 絶対、忘れない。
 未来に行っても、覚えてる。
 わたしが、貴方が、こんなにお互いを好きだということ。
 それは、不確定な未来ではなくて、確実に訪れる未来のはなし。




end.