ほんわり、と花の香りがする、とリノアは思った。今はほのかに春を感じられるように思える季節。まだまだ、夜の空気はつめたく輝いているけれど、それでも昼の長閑な暖かさを少しだけ引きずっているかのようだ。気温は低いのに、どこか春の雰囲気が立ち込める。これからどんどんと温く緩んでいくのだろうが、その前にあるほんのささやかなひんやりとした空気。冬の鋭く厳しい寒さを、ほんの少しだけ綻ばせたかのようにまるい空気。春はすぐそこまで来ている。


「おめでとう、わたし。」


 そう言いながら、リノアは気に入りの紅破璃のグラスをそっと掲げた。中には、リノアが少しだけ飲める甘いとろりとしたアルコール。自身の成長は17歳の頃に止まってしまっているけれど、年齢的にはとっくに成人しているのだ。それほどお酒に強くはないけれど、甘い優しいアルコールを少しだけ飲んでほんわりする気持ちよさ、それを知ってからそれなりの年月が経っている。
 一口飲んで、それからほうっと息を吐いてみた。吐息が、白くまるくけぶって、それから夜の闇にとけていく。空には星の光が清かに瞬いている。今日は雲ひとつない晴天だったから、空気が澄み切って、遠くの星にまで手が届きそうだ。そんなことを思えるほど静かだった。まるでこの世の中に自分ひとりしかいないんじゃないか、そんなことを信じてしまえるほど。


 からり。
 背後で、静かに窓を開く音がした。まるで色もなく音もない、静かで完全だった世界は消えうせ、そこには色鮮やかな世界が広がる。くるり、と振り返ると、そこにはピンクのストールを片手に持った、栗色の髪の彼がいた。ここは人気がない場所の一軒家だからだろう、あたりは街灯もなく真っ暗だった。居間からもれる光と、星が煌く光、それしか明かりとなるものはなく、だからこそ、栗色の髪の毛と澄んだ蒼い瞳がくっきりと闇から浮かび上がる。
 少しだけ目を細めて自分を見ている彼に、リノアはくすり、と微笑んだ。きっと、彼にはわたしはまるで闇に溶け込んでしまっているかのように見えているんじゃないかな。そんなことを思って。


「風邪、ひくぞ。」


 少しだけ低めの、まるで囁くような声でスコールは言い、それからストールをそっとリノアに巻きつけた。ほんわり、と暖かさに包まれてリノアはそっと目を細める。そういえば、今着ているのは柔らかなオーガンジーのワンピースに薄めのカーデガンだけだった。家の中は暖かだからそれで丁度良かったけれど、さすがにそのままで外にいたら、彼の言うとおり風邪をひいてしまっていただろう。


「ありがと。あったかい。」
「・・・・・・疲れたか?今日は、色々な人が来たから。」
「んーん。いい気分。今はパーティーの後の余韻を楽しんでる、って感じかな?」
「そうか。星、綺麗だしな。」
「うん、静かで、綺麗なもの見て、穏やかな気持ちで。いいね、こういうの。」
「寒いけどな。でも、以前ほど厳しい寒さでもなくなったか?」
「そうね。春がそこまで来てるからだよ。」


 隣に並んで星が煌く夜空を見上げるスコールに、リノアもまた視線を星に留めながら答える。2人の会話は、まるで意味があるようなないような、他愛のない短いものだった。だけど、それでいい、いや、それがいいのだった。意味がないような思い付きのような言葉でも、きちんと受け止めて返してくれる人がいる。短くて意味がなさないような会話でも、説明しがたい自分の心地良い気持ちを理解してくれる。思いを伝えるのに、余計な言葉をたくさん重ねる必要がない。ここまで来た道程の中で得た2人の、2人だけにしか使えない魔法の存在に、リノアはしん、とした鮮烈な感動を抱いた。
 だからくるん、とスコールの顔を覗き込み、それからそっとピンクにゆらめくグラスを差し出した。


「飲む?」



 飲む、という返事をすることなく、スコールはリノアからグラスを受け取り、そして少しだけ口に含む。元々、リノアが持っていたグラスはちいさなものだったから、普通にこくりと飲んでしまったらすぐに空になってしまう。だから、ほんの少しだけ唇をつけたのだけど。


「・・・甘い。」
「ん。蜂蜜みたいでしょ。何か、甘くて溶けちゃいそうな。」
「そういう気分だったのか?」
「そう。少しね。」


 すぐに自分の手に帰ってきたグラスの中の液体を、ゆらり、と揺らめかしながらリノアは穏やかに笑った。スコールが甘いものが苦手なことをリノアは知っている。彼からしたら、このお酒はとても甘すぎてとても飲めないってことも。
 そして、スコールも知っている。リノアが甘いものが好きなことを。リノアがひとり好んで飲んでいるアルコールなんて、とても甘いに決まっていると知っている。
 それでも、リノアが差し出し、誘ったグラスに口をつけることを、スコールは躊躇ったりはしなかった。
 ああ、それはなんて。


 ふ、とさわりと風が起こった。ふわり、としながらもそれは確実に体温を奪っていってしまうだろう程に冷たい。耳たぶがじん、とする。それはつめたく凍えているからなのだろう。リノアはスコールが巻きつけてくれたストールに、ぽん、と顎まで埋まりこんだ。
 まわりに明かりがないから、空は本当に純粋に深い闇色だった。そこに、いくつも散らばる星達。はじめて出会ったときにも見た、数々の星座。
 何も音はせず、ただ息を呑むほどの静寂の中で、まるでこの世に2人しかいないんじゃないか、そんなことを錯覚してしまいそうになる、そんな夜。
 こくん、とリノアはグラスのアルコールで喉を潤した。ちびちび、ではなくこくり、と多めに飲んだから、濃厚な甘さが口の中いっぱいに広がる。グラスの中のアルコールはもう後僅かになっていた。


「もう一口だけ、飲む?」


 そう言って、リノアはグラスをスコールに掲げて見せて、それから最後のひとしずくを飲み干した。スコールは驚いたように少しだけ目を見開いて、それから破顔した。リノアの意図するところ、それをたちまち理解したスコールは、そっとリノアの身体を自分に引き寄せる。アルコールを飲んでいるからだろう、いつもより少しだけ濃い色に染まったさくらんぼのような唇に、そっと自分の唇を重ねた。ふわり、とはじめはただ重ねて、それからおもむろに深く。唇を割り奥で震える舌を見つけて絡めたら、そっと彼女の方からも絡められた。
 頭いっぱいに広がる、甘い香り。濃密な甘さが、リノアの唇から、舌から、柔らかな身体の体温からスコールに与えられる。そっと離したときにたてた、ちゅっという軽い水音、それから、ん・・・と溜息のように漏らしたリノアの吐息。甘やかでささやかなはずのそれは、やけに大きく聞こえた。


「やっぱり甘い?」
「ああ。・・・でも。」


 また、角度を変えてもう一度口付ける。今度は最初から、深く奥まで。リノアがくぐもった声を喉の奥でたてた。宥めるようにスコールがリノアの背中を擦ると、リノアもそっと手を伸ばし、スコールの背を撫でた。ちいさな掌が控えめに擦る仕草に、少しだけくすぐったいような熱くなるような、そんな不思議な感覚を覚えて、そっとスコールは唇を離した。そして間近にある、ほんのり目尻が淡く桃色に染まる黒曜石の瞳を見つめた。
 気づけばすぐ近くにあったスコールの澄んだ蒼い瞳に、リノアは何だかとても照れくさいような恥ずかしいような気持ちになって、思わずきゅっとスコールの胸に抱きついた。両手を精一杯まわしても、リノアの手にはスコールの背中全部は届かない。昔はもう少し、背中をぎゅっと抱きしめられたような気もしたけれど、・・・きっとスコールの身体が大きくなったのだ。今のリノアには、手を回してぎゅっと組むことが出来るのは彼の腰周りぐらいしかない。それでも誰よりも近くにいたいの、そう言わんばかりに、届かない腕で精一杯彼を抱き締めて頬を胸に摺り寄せた。
 ほとほと、とスコールの鼓動が確かに伝わる。それから、彼の少し高めの体温も。


「あったかい、ね。」
「そうだな。」


 スコールはそのまま、リノアをぎゅっと抱き締めた。抱き締めてくれていること、そのことが嬉しくて、リノアはそっと目を閉じた。
 わたしが、こうやってくっついているのが好き、って言ったの、きちんと覚えてくれているんだ。最初は慣れてない、なんて言ってたけど、それでもわたしを振り払うことはしなかった。そして今は。今は、わたしがくっついているのと同じように彼もくっついてくれている。わたしに体温とこころを、確かに預けてくれている。わたしが彼にそれを預けているように。


 瞳の奥が、ふいに熱くなった。きっと涙が滲んでいるのだろう。鼻の奥が、つんとした痛みをもたらす。


 たくさん、彼のことで傷ついた。
 たくさん、彼のことを傷つけた。
 リノアは今でもときたま、スコールの優しさが身に痛くて仕方ないときがある。彼が捨てたもの、彼が得られないだろうもの、それを思って苦しむことがある。そんなときは本当に苦しくて切なくて、でもスコールはそれを癒すことは出来ない。癒して欲しくないと、リノアが拒絶するからだ。自分でも何故か分からない、こんなに幸せなのにたまに滲みのように抱いてしまう苦しみなど、どうしようもないから。出来ない約束を、彼に強いる気は毛頭ない。そんなリノアに、彼もまた傷ついているのを知っている。


 それでも、リノアはスコールと一緒にいることを止めない。
 そして、スコールもリノアと一緒にいることを止めない。
 それは、リノアにとって最大の癒しであり、救いだった。スコールにとっては、それは誇りであり存在意義だった。痛みを抱えつつも、お互いでないと駄目だと、他の人では駄目なのだと確信している。それは、彼らの希望以上に、現実で真実だった。
 想い、想われる。この世にたくさんの人がいるのに、たった2人にしか通わせられないこの感情は、どれほどの奇跡なんだろう。
 すり、とまたリノアは自分の顔をスコールの胸に摺り寄せた。そうしないと、何だか涙がこぼれてしまいそうだったから。
 少しだけ湿り気が伝わった自分のシャツに気がついたのだろうか、スコールがそっとリノアに尋ねた。


「・・・痛い?」
「うん、しあわせ過ぎて胸が痛い。」


 スコールはただ黙って、リノアを抱き締めてくれていた。
 痛みがあっても、酷く誰かを傷つけても。
 それでも、胸が痛くなるほど幸福な気持ちを抱いて。
 それは、言葉なんかでは追いつかない。涙も、この気持ちを代弁してはくれない。ただ、こうやってお互いの一番近くにくっついていることで、それは具現されるだけ。
 自分達にそれを知るよすべはないのだけれど、それでも信じることが出来る。きっと、2人が今抱いている気持ちは同じではなくても、限りなく近しいものなのだろうということを。全く同じではないが、限りなく近しく似ている気持ちを抱ける、それはやはり温かでしあわせだ。たとえ、今夜空に瞬いている星達のささやかな輝きのようにちいさなものだとしても、確かにしあわせだと信じることが出来る。
 だから。


 言っても、いいだろうか。
 ここには2人だけで、誰も聞く者はいないから。どんなに歯の根が浮いてしまいそうな台詞でも、恥ずかしくなるような心情の吐露でも、素直に口に出せそうな夜だから。
 この、溢れてしまう気持ちを、言葉にしてもいいだろうか。君に、伝わるだろうか。
 ふう、とひとつ息を吐いて空を見上げた。ひときわ輝く、北を指し示す星、彼女と同じ名前の星が見えた。
 スコールも、胸が痛かった。リノアが言った、「しあわせ過ぎて胸が痛い」その言葉は彼も同じく思っている。ほんのひとつ吐いた吐息ですら、胸を甘やかに掻き乱す。


「ーーーー生まれてきてくれて、有難う。」


 そっと、まるで呟くように言った言葉は、リノアに確かに届いたようだった。抱き締めるスコールの腕の中で、彼女はぴくり、と震えたから。リノアはスコールの背中にまわしていた腕をほどき、それからおもむろに首にまわした。ぐっと近くなる彼女の顔を見たら、先ほどより赤みを増している潤んだ黒曜石の瞳が見えた。リノアは、不思議な表情をしていた。泣いているような、微笑んでいるような。多分、自分も同じような表情をしているのだろう、そんなことをスコールは思った。


 君が。
 貴方が。
 生まれてきてくれなければ、絶対に会えなかった。一緒にいることなんて出来なかった。
 こんなに愛しいという気持ちを、知ることもなかった。
 こんなに、痛みを覚えるほどしあわせだと、そう思うこともなかった。


「今日ね、たくさんの人に祝ってもらったけど。たくさん、おめでとうを言われたけど。」
「ああ。」
「最後に、あなたに祝ってもらって良かった。もう一度、言ってもらっても良い?」


 可愛らしく、小首をかしげながらリノアがねだる。時が過ぎ去っても知り合ったばかりの頃のようなお願いの仕草、そのいつまでも変わらないその仕草にスコールは笑って、それから彼女の望みどおりにもう一度、生まれてきた日を言祝いだ。
 リノアは。
 スコールの首に回した腕をぎゅっと巻きつけて、精一杯背伸びをして彼の首筋に顔を埋めて、それから満足そうな溜息をついた。
 首筋に、少しだけ暖かな雫を感じた。リノアが零した、ちいさな星のかけらのようなそれに答えるように、スコールはまた静かに確かに抱き締めた。


end.



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