誕生日ってね。自分のことを識別するためのツール、じゃないんだよ。
 わたしが、貴方がここにいる。そのことを改めて喜び合える日なんだよ。

 だから、わたしは祈る。
 貴方がしあわせでありますように、と。
 いつも空に在り、どこにいても見ることが出来るあの星に、祈るわ。


***ステラマリス 〜海の星〜


「ご宿泊・・・・・・6名様ですか?」
「ああ。男性3名、女性3名なので、出来れば部屋を二つ取りたいんだが。」
「かしこまりました。では、代表者の方のみ、こちらの書類にご記入いただけますか。」


 バラムにある、青いバラムホテルのフロントでスコールが宿泊希望を告げると、フロント係はさっと手元の端末を確認し、それから宿泊カードを恭しく差し出した。そのカードを受け取り、スコールは几帳面な字でさらさらと記入していく。
 とことこ、と後ろから足音がした。
 多分、その足音は彼女のものなのだろう。何の用もないのに自分の隣に来て話しかける人間など、彼女以外に思いつかない。
スコールの予想を裏切らず、例の彼女がひょっこりとスコールの手元を覗き込んだ。


「スコールって字、綺麗だねえ。男の人じゃないみたい。」
「・・・・・・皆こんなもんだろ。」
「そんなことないよー。だって、ゾーンやワッツの字なんて、ホントぐちゃぐちゃだもん。特にゾーン。何書いてあるか分かんないくらい、ミミズののたくったような字だよ。」


 あいつらと一緒にするな。そう言いたげな、少しだけ眉を顰めた表情に、リノアはうふふと笑った。軽くたてた笑い声は、まるで鈴の音色のようにこのホテルの高い天井と澄んだ青い外壁にこだましていく。それは何だかとても長閑で、今があてどのない戦いの最中であるなんてことを忘れさせてくれるようなものだった。きっと、彼女が口にする言葉はいつだって暢気で、何でもないようなことが多いからかもしれない。最初スコールはそれに苛苛して、少しは状況をわきまえろと腹が立って仕方なかったが、今現在はもう「この人間はそういう人間だ」という認識で落ち着いてしまっている。
 だからこのときも、何も気に留めず、そのままさらさらと記入を続けていた。
 そのとき。


「あれっ!?」


 何が楽しいのか知らないが、子どものようなわくわくとした瞳でスコールの手元を覗き込んでいたリノアが、急に驚いたように軽く声を上げた。何かおかしなことでも書いたか?そうスコールは訝しげに思って、少しだけ眉を顰めてリノアを見る。


「ねえ、スコールの誕生日って8月23日なの!?」
「・・・・・・そうだけど。」
「それって、今日じゃない!!何で言ってくれなかったの!?」


 自分が記入した生年月日の欄を指差して、リノアが頬を少しだけ赤くしながらそう勢い込んで言った。その勢いに気圧されるように、スコールは少しだけ仰け反って一言だけ返事をした。それがまた、彼女にとっては意外だったらしい。さらに強い口調で言われて、スコールは混乱する。


「別に、誕生日が今日だなんて、知っても知らなくてもいい情報じゃないのか。」
「そんなことないよ!前もって知ってたら、そしたらお祝い出来たのに!!今知ったんじゃ、何も出来ないじゃない。」


 スコールのそっけない返答に、リノアはますます頬を赤くして、そう言い募った。
 ・・・・・・訳が分からない。
 リノアがどうしてこれほどまでに、今日が自分の誕生日だっていうことを重要視するのか、さっぱりスコールには分からない。分からないことで色々問い詰められることは、何だか自分の気分をささくれ立たせる。少しだけ苛苛した気分を抑えながら、スコールはむっつりと口を開いた。


「別に、今日俺が生まれたからって、何の意味もないだろ。俺だって人間なんだから、生まれた日くらいはある。それだけだ。」
「うーん、そうじゃなくって・・・・・・。」


 さすがのリノアも、どうも自分とスコールの会話が噛みあっていないことに気がついたらしい。少しだけぽりぽり、と頬を掻いてから、少しだけ上目遣いにスコールを見て。
 それから、もったいぶったような仕草で尋ねた。


「あのね、スコールくん。
 君にとって、誕生日ってどういうもの?」
「どういうって・・・・・・。」


 どういうもこういうもない。それがスコールの答えだった。
 誕生日なんて何の意味も無い。ただ、自分がその日に生まれたらしい、ということを伝える情報なだけだと思う。自分が生まれた日のことなんて当然自分で知る由はないのだから、誕生日がこの日だと言われてもそれが真実なのか確かめる術は無い。ただ、伝聞された自分に関する情報の一つ、と言ったところか。さっきリノアに言った、「生まれた日があるからって、何の意味も無い」というのがまさに正鵠を射ている。
 しかし、あえてもう一度リノアが自分に問いかけた、というのはその答えは違うのだ、ということを指し示しているのだろう。
 スコールはそう思って、もう一度考えてみた。
 ーーーーーああ、一つだけ意味があった。


「俺にとって、誕生日は公的証明やID認識のために必要なものだ。スコール・レオンハートという人物は確かに俺だ、ということを識別させるツールの一つだな。」
「・・・・・・まあ、確かにそういう一面もあると思うけど。
 ねえ、スコールは一度も、自分の誕生日をお祝いしてもらったこととかないの?美味しいもの食べさせてもらったりとか、何か欲しいものを貰ったりとか。そうやって、ここに自分がいること、喜んでもらったりしなかったの?」
「ない。」
「・・・・・・。」
「誕生日を祝ってもらったことなんて、一度もない。
 ・・・・・・というか、誕生日はそういうことをする日なのか、一般的に?」


 誕生日があることはあるが、誰かにそれを聞かれたことや、ましてやそれを祝われたりしたことなんて一度も無い。だから、そのままそう答えたのだが。その返答を聞いてリノアは少しだけ黙り込んだ。黒い、いつだって楽しげな色を載せている瞳は何だか辛そうに見開かれていた。そして、それを見られたくは無いかのように顔を俯けてしまった。
 一体、何なのだろう。
 どうして彼女がそんな表情をするのか、スコールには全く理解出来なかった。


「リノア?」


 俯いている彼女にそう、そっとスコールは呼びかけた。その声音は、ほんの僅かだけれど確かにリノアを気遣っているような香りがした。誰も気づかないような、ささやかな優しさが感じられる声音に、リノアが俯いた顔を上げると、子犬のような瞳で戸惑いながら自分を見ている蒼い瞳とぶつかった。
 リノアは、そっと首を振った。そして、何でもない、と。そう言わんばかりに、いつもどおりな可愛らしい笑顔を浮かべた。


「ねえ、スコール。」
「何だ?」
「今日は、このままこのホテルに泊まるんでしょ?あのさ、今夜ちょっとだけ、海散歩してみない?」
「・・・・・・。」
「わたし、ガルバディアではずっと家に閉じ込められてたし、ティンバーは森に囲まれてたしで、海あんまり見たこと無いの。
 だから、ね?」
「・・・・・・別に俺じゃなくても、バラムはゼルの故郷だし、ゼルのがいいんじゃないのか。」
「ううん。スコールだって、ずっとバラムガーデンにいたんでしょ?だったらスコールも、バラムが故郷じゃない。
 わたしはスコールと一緒に行きたいな。」
「・・・・・・。」


 誕生日の話からいきなり話題が転換したことに、スコールは少しだけ戸惑った。先ほどしていた、何だか辛く悲しいことに出会ったかのような表情は、自分の見間違いだったのだろうか。今目の前で自分を誘う彼女は、いつもどおりにこにこと陽気に笑っていて、先ほどまでの様子は幻だったのではないかとそう思わせる。
 本当に訳がわからない人間だ。スコールはリノアのことをやはりそう思った。いつも暢気で、1人何でもないようなことばかりに気を取られているくせに、たまに真剣な表情で鋭く何かを指摘したり。そうかと思うと、まるで鈍感で何も気づいていなかったり、何かを敏感に感じ取ったりしたり。目にするたびに異なる彼女の表情は、まるで万華鏡のようだった。スコールは困る。今までそんな人間に会ったことがないから、純粋にどう接したら良いか分からなくて困惑するしかない。
 今も。
 本当は、夜海を見に行くなんて面倒で仕方なかったけれど。それをそのまま口に出してリノアの機嫌を損ね、さらに面倒くさいことになるのも嫌で。
 だから、彼女の急な誘いに困惑しながらも、ぶっきらぼうな表情で、仕方なく頷くしかなかった。
 そのスコールの様子を見て、リノアは嬉しそうに、花が開くように笑った。


***


 ざ、ざ、ざあ・・・・・・と繰り返し寄せる音が、闇に静かに響く。そして、さく、さく、と砂を踏みしめる音が微かに、しかし定期的に訪れる。
 今夜は三日月で、周りは薄暗かった。数多くの星が上がっているがそれらはささやかな光の瞬きで、散歩の歩みの助けにはならなかった。それでも、しばらく外にいると目が慣れてくる。次第に、黒い闇のような景色から、モノトーンの景色へと映る世界が変化していった。
 バラムの海岸は、なだらかな砂浜が続く。夜は昼よりも多くのモンスターが出ることは出るが、今の自分たちではそう相手にもならない雑魚ばかりだ。しかし、一般人にはそうはいかない。夜街から出て海辺を出歩くことなど、バラムの住人たちは考えもしないのだろう。辺りにはまったく人気はなかった。


「今日、良かったね、三日月で。」
「・・・・・・何で。」
「だって、お月様がまんまるだと、星はあまり見えないじゃない?
 今日は三日月だから、本当に小さな光の星も見えるよ。」


 隣で、さくさくと砂を踏みしめながら、リノアがまるで歌うかのように口火を切った。辺りは静かな海の音と踏みしめる砂の音の定期的な音しかしない、不思議なぽっかりとした空間だった。その中で彼女が静かに囁いた音色は、不思議にやさしかった。
 スコールはいつもどおりの言葉少なげな返答だったけれど。でも、相手を拒絶するような冷たさを漂わせている訳ではなく、落ち着いた静かな声だった。
 リノアはささやかに、ほんのりと笑顔を浮かべた。それは闇にまぎれてスコールの目には届かなかったけれど、スコールも穏やかにリノアに話しかけた。


「確かに、凄いな。星。」
「うん。わたしね、デリングシティで育ったでしょ?あそこはいつも明るくて、星なんて全然見えなかった。お店のネオンや街灯の明かりとか地上の光が眩しくて、こんなにささやかな光はわたしのところまでは届かなかった。
 星が綺麗だなって思うようになったのって、最近なの。ティンバーでも、森に囲まれてたからかな、あまり星は見えなかったし。」
「・・・・・・ああ、だからか。パーティ会場で星を見てたのは。」
「そう。あんなにたくさんの星が見えるなんて嬉しくて。そしたらさらに、流れ星まで!わたし、ツイてるなあってそう思った。」
「単純、だな。」
「・・・・・・どうせ、わたしは単細胞ですよー、だ。」


 ぷん、と拗ねたように言うリノアがおかしくて、スコールはついくすっと笑いを零してしまった。単純だ、とは言ったが、単細胞だとは言ってない。リノアが良くする意味の取り間違いなのだが、スコールは訂正することはしなかった。リノアも拗ねたように文句は言ったが、それについて怒っているわけではなさそうだった。スコールの僅かな笑いに気がついて、それからくすくすと楽しげに笑っていた。


「スコールはさ、星座とか星とか詳しい?あのパーティのとき、スコールも星見てたし。」


 あのときは、スコールは何もすることがない、というかする気がなかったので、ただ手持ち無沙汰に夜空を眺めていただけだった。だから、リノアにように嬉しくて空を見上げていた、なんてことはないのだが。ただ、それをそのまま彼女に伝える気にはならず、言葉を出さずに少しだけ首を振った。
 リノアは、そっか、と小さく答えた。
 そして、スコールのすぐ隣から数歩先に歩み出ると、くるり、とスコールに振り返った。


「ね、スコール。
 ステラマリス、は知ってる?」
「・・・・・・ステラマリス。」
「海の星、のこと。」
「・・・・・・ああ、それなら。授業で習った。」


 それだけ言うと、スコールは夜空を見上げた。指し示す、道しるべの通りに星たちを辿っていくと、そこに清冽に輝く一等星がある。黙ってその星を指差すと、リノアもスコールの指先が指し示す方向を見やった。自分が言った星が確かにそこにある。それを理解して、リノアは綺羅綺羅した瞳で見つめ。
 それから瞳を閉じてそっと手を組み、祈った。


「リノア?」


 訝しげに問いかけるスコールに、リノアは閉じていた瞳を開いて、それからほわり、とまるで子どものように無邪気に笑った。辺りは、暗い。だから彼女の表情の細に至るまでスコールが見知ることは無い。それでも、その笑顔が何だかとてもあたたかなやさしいものだということが、どういう訳か伝わった。思わず、スコールは目をそらして俯く。まるで、見てはいけないものを見てしまったときのように。
 リノアの笑顔がとても眩しくて、まともに見つめていることなど出来そうに無かった。


「ステラマリスは、海の星。旅人や、行き交う人が道を迷わないように、いつも同じ場所で輝き続ける。スコールは、そう習ったでしょ?」
「・・・・・・ああ。」
「お父さんから教えてもらったんだけれど、あの星は神様の星なんだって。いつもそこにいて、わたしたちを見守り、道を指し示してくれる。それはまるで神様の姿だと、そう言い伝えられてきたって。」
「・・・・・・あんたははそういう信仰を持っている、ってことか?」
「ううん。わたしも、その信仰は持ってない。ただ、話に聞いたから覚えてただけ。
 神様がいるのかどうか、それもわたしには分からないし。」


 ゆるく首を振ってそう答え、リノアは空から海を見やった。遠く、遥か彼方で、瞬く星空と海が溶けて一つになっている。暗い中、海はまるで漆黒の塊のように自分たちへと向かってくるけれど、浜にぶつかって砕けて散るかけらはやさしく白い泡となってまた海へと還って行く。
 

「でもね。神様がいたらいいな、ってわたしは思う。わたしたちが思うこと、願うこと、それがいつも誰かに聞いてもらっている。そう思えるのは素敵でしょ?
 だから、わたしはあの星にお祈りするの。そうすれば、きっと祈りは叶えられるから。」


 海の細波のように、リノアはぽつりぽつり、と静かに言葉を紡いだ。しかし、スコールは僅かに首を振り、そして歩みを進めていく。リノアは走ってスコールの隣に近づいた。


「スコール?」
「・・・・・・願いは、祈りなんかじゃ叶わない。自分で叶えるものだ。祈るだけで何か叶えられるなんて、そんな虫のいい話はない。」


 不機嫌そうにそれだけ言うスコールに、リノアは仕方ないなあというように苦笑した。そして、人差し指を立ててスコールに言った。


「違うよ、スコール。祈りは叶えられるもので、願いは叶えるものだよ。祈りと願いは、別物だよ。
 願いを叶えるために頑張って頑張って、もうこれ以上出来ないと思ったときに、はじめて祈るんだよ。
 わたしは、これから絶対に叶えられるだろうことを、あの星に祈ったの。」


 歩みを止め、訝しげに見るスコールに、リノアは柔らかく微笑んだ。まるで小さな花が咲いたように。スコールは虚をつかれて黙り込む。そんな彼に、リノアは歌うように囁いた。


「あなたの明日が、今日よりももっと素晴らしい日になりますように。あなたが、しあわせになりますように。
 今日から始まるあなたの新しい1年が、さらに素敵なものになりますように。」
「・・・・・・それが、あんたが今祈った内容か。」
「そう。絶対叶えられる願いでしょ?」


 リノアはそれだけ言うと、また星を見上げて、それから微笑んだ。
 スコールは何も答えなかった。否。答えられなかった。
 つたない小さな言葉だけれど、それは。リノアがスコールにくれようとしたものが確かに、スコールにも伝わったから。


 こんな。ただ、成り行き上一緒にいるだけの人間にもそんなことを願うなんて、リノアの見る世界はどれだけ綺麗なんだろう。どこまで、やさしいのだろう。今まで誰からももらったことのない、何だか不思議なあたたかさを感じてスコールは、俯くしかない。リノアのように夜空を見上げることなんて、出来なかった。自分がどんな表情をしているのか、それを知られたくなかった。
 何を言えば良いのだろう。思うことや抱えきれない気持ちははたくさんある、でもそれは言葉として実らない。
 ただ黙っているスコールに、リノアは振り向いて口火を切った。


「ごめんね、誕生日プレゼントがこんなんで。
本当は、何か良いもの買ってあげたりしたかったんだけど。でも知ったのが今日だったし。
最近色々なことありすぎて、多分スコール疲れてるだろうなって思ったから、ちょっとした寛ぎの時間でもあげられたらなあって思って、夜の散歩誘ったの。」
「寛ぎ、か。」
「うん、ちょっとは気晴らしになった?」
「ああ。」


 これ以上短くは出来ないほど、そっけない返事しかスコールは出来なかった。だけど、そんな返事でもリノアは嬉しそうに微笑む。いつも自分はあまり喋らないし態度もそっけないから、話しかけてくるような人間はあまりいなかった。いても、自分の相槌にもならない返事に嫌気が差して、少しの会話で終わってしまうのがほとんどだった。
 それなのに、この目の前にいる人間は。スコールがどれだけ邪険に扱おうとも、無視したり拒絶したりしても、めげずに明るく話しかけてくる。返事が来ないだろう、そのことを分かっていても話しかけるのを止めない。たまに返ってくるスコールの返事に出会うと、ものすごく嬉しそうな表情で笑って。
 だから、ほんの一言だけ。ちいさな吐息のような声で、一言だけ。スコールはリノアに感謝の気持ちを伝えた。


「・・・・・・有難う。」


 誰かをしあわせであるよう願うこと。そんなのは奇麗事だと思っていた。
 誰も彼も自分のことで精一杯で、他人のことを気遣うことなんて出来はしないんだ。そう思っていた。
 それなのに。実際目の前でリノアにそう祈られて。不快感は微塵も起こらず、確かに心に響く。
 ざ、ざ、ざぁ・・・・・・と寄せる波音のように、スコールの心を満たしていく。


 スコールが呟いた感謝の気持ちは、確かにリノアに届いたようだった。
 彼女は一瞬だけ、目を大きく見開いて。それから、大輪の花が咲き誇るかのように笑った。


「帰るか。明日も早いし。」
「うん、つきあってくれてありがと。
 それから。誕生日おめでとう。」


 照れ隠しのように、少しだけ急いて言ったスコールの言葉に、リノアもこくりと頷いた。そのまま、2人はまたバラムの市街にむけてゆっくりと歩きだした。


***


「リノア、見えるか?海だ。」


 海が見える、そんな言葉では足りないほど、今のスコールとリノアは海に囲まれていた。
 ここは、フィッシャーマンズ・ホライズンから延びる、エスタにむかう橋の途中。ただ茫洋と広がる海の中に一本真っ直ぐに伸びる橋は、どこまでも果てしない道行を人に無言で教えると思う。
 そろそろここで休むか。そうスコールは思って、背負ったリノアをそっと下ろした。さらり、と長い黒髪が頬を覆い隠す。きっと眠っていてもくすぐったいだろう、そう思ってスコールはそっとかきあげて耳にかけてやった。
 先ほどまで、平らな海面を赤く染め上げていた太陽はすっかりと影を潜め、空は薄紫からだんだんと漆黒の闇へと変化していく。そしてそれからは、さやかな月と星の世界だ。まわりに明かりとなるものが全く無いから、星がまるで降るようにたくさん輝いている。
 きっと、リノアはこの星空を見上げたら、また喜びの表情を浮かべて嬉しそうに笑うだろう。そんなことを思いながら、スコールもリノアの隣に腰掛けた。
 空に瞬く、無数の星。
 その一つ一つをつなげていくと、無数の星座が出来るのだろう。
 だがスコールは、それほど星に興味がある訳ではない。知っているのは、ただ一つの星。それだけだ。


 あの日のように。授業で習ったように、道しるべを辿り、そしてその先に白く輝く星を見つける。


「ステラマリスだ、リノア。」


 世界中、どこにいても。そこに確かに存在する星。道しるべとなり、あるいは信仰の対象にすらなる星。
 それを教えてくれた彼女は、今夢見る世界にいる。身体はここに、自分の傍にあるのに。彼女の心だけが、どこか遠くにいる。あれほど、スコールが煩いと感じてしまうこともあるくらい常に何かを話しかけていた唇は、ほんのりと開いて微かに吐息を立てているだけだ。生きている、それだけをスコールに教えるために。
 途方も無い闇の中で、スコールはそっと頭をリノアの頭に寄せた。そして、静かに瞳を閉じる。


 あのとき。
 誕生日を祝うことを知らなかった俺に、やさしい小さな祝福をくれた君に。清らかな祈りを、力強い言葉をくれた君に。
 今度は、俺があの星に祈る。


「リノアの明日が、今日よりもっと素晴らしい日になりますように。リノアが、しあわせでありますように。
 目覚めたときに見える世界が、リノアにとって懐かしく嬉しいものでありますように。」


 小さく祈る声は、深く包み込むような闇にすぐに溶けていく。
 あのとき、リノアは言った。祈りは叶えられるものだ、と。願いは自分で叶えるもの、願いを叶えるために一生懸命頑張って、最後祝福するように零す言葉が祈りなのだと。祈りは、絶対に叶えられるものだと。
 だから今の祈りは、「俺は諦めない。」ということの誓いなのだ。
 リノアが目を覚まし、こちらを見てまた嬉しそうに笑う日は絶対に来る。めまぐるしいほど表情を変えて、色々なことを話しかけてくる日は必ず来るだろう。そのために、俺は諦めずに出来ることを全てする。
 俺のちいさな祈りは、必ず叶えられる。それは確信だ。何故なら、俺はあのときのリノアの祈りが叶っていることを知っているから。どんなに今が辛くて苦しくても、去年の自分には戻りたくないと切実に思うのは、今が去年よりももっと素晴らしい日々だと思うからなのだから。


 微かな、だけど定期的な吐息が、スコールの首筋に当たる。リノアは眠っている。スコールの零した言葉や表情に、きっと気づかない。
 それでいい。今はただ、リノアが確かにそこにいるということを感じられる、この吐息とぬくもりだけで。


「おやすみ、リノア。」


 スコールがそう囁いた声は、遠く潮騒に溶けていった。




end.