35.逃げない
(アーヴァイン 17歳)


どうにかして、何とかならないのか。
どうして、僕たちでなければいけないのか。
僕たちでなきゃいけない理由なんか、あるのか。
多分、そんなことはないのだろう。
時が僕たちを選んだのは、単なる偶然。意味なんてない。
それでも。
僕たちは、僕は。もう逃げるわけにはいかなかった。


「アーヴァイン、どうかしたのか?」
「ゼル?」


ぼんやりと校庭だったところから、視界いっぱいに広がる雲を眺めていた僕に、ゼルが後ろから声を掛けてきた。今、僕らはトラビアへと向かっている。特に当てがある旅というわけでもなかったし、セフィが行きたいと望むならそれもいいか、みたいな感じで決まったのだった。まあ、トラビアガーデンの現状も全然わからなかったし、確認しておくという点でも、トラビア行きは至極もっともだった。
僕が腰掛けていた校庭の端に、ゼルもぽすん、と腰掛けた。


「こう見るとさあ、何だか空に吸い込まれるような気がしねえ?」
「そうかもねー。」


他愛のない会話をしながら、僕たちはただずっと眼下の景色を見つめていた。海と、空の青。ただそれだけが広がる中に、ところどころ白い雲がコントラストを作る。何もない、と言ってしまえばそれだけだったが、この何もない景色がかえって僕にはよかった。元気なゼルには物足りないんじゃないか、そんなことも思ったけど、ゼルもじっと黙って景色を眺めていた。


「なあ、アーヴァイン。」
「なに?」
「何でだろうな。何かさ、とてつもなく遠いところへ行こうとしている、そんな気持ちになることねえ?」


ただ真下の景色を眺めながら、ゼルがぽつり、と言葉を洩らした。僕は、それに答えることはせずに、ただ頷いた。それを見て、ゼルもまたぽつり、ぽつり、と言葉を紡いだ。それはまるで独り言のようだった。誰も聞いてなくても構わない。そんな感じのそれだった。
だからだろうか。それがゼルの本当の気持ちなんだろう。そういうことが僕にも理解出来た。


「最初はさあ、確かに何か手柄立てたいなあとかそんなことをぼんやり思ってただけだったんだけど。でも最近さ、それって何なんだろうって思うようになった。」
「うん。」
「昔はさ、何も知らなかったじゃん?だからこそただ純粋に、悪いやつをやっつけようとか、そんなことだけ思えてたんだけど。それでも何だかな、最近ずーっと心の中でもやもやするんだ。
俺らが敵だと思ってるヤツらって、何を思ってるんだろうとか、そういう迷いみたいなもん?それがあったりするんだ。」
「そっか。」
「魔女イデアもそうなんだよな。あんなヤツ、ぶっ飛ばしちゃえと思うんだけど、心のどこかで、それをしたくないと思ってる自分もいたりする。」


最後のゼルの言葉を聞いて、僕は少しだけ身を固くした。もしかして、ゼルは覚えているのだろうか。魔女イデアの本当の姿に、彼は気付いているんだろうか。そう思ったからだったのだけど。
でもゼルの表情を見る限り、そうではないようだった。
そのことに、僕は。
僕は少しだけ、がっかりとした。


みんなは忘れている。
あの頃のこと、ママ先生のこと。何もかもを忘れている。忘れてしまったということすらわからないほど、彼らにあの頃の記憶はない。それは、彼らにとって幸せなのかもしれなかった。何もかもを覚えている僕からしたら、それは例えようもなく羨ましいと思うほど。
出来ればそのままでいたほうがいいんじゃないか。知らないほうがいいことだってある。せっかくみんなは忘れているんだ。だったら忘れたままでいさせてあげたほうがいいのではないか。要らぬ苦痛を背負い込む必要なんてないんじゃないだろうか。僕はそう思う。
しかし、その反面。
あれだけ可愛がってもらって、大好きだったママ先生のことを、ただの敵、それだけとして認識するということの惨さにも僕はぞっとしてもいた。大好きな人を、確かに愛してた人を、記憶がないからといってためらいもなく殺せる。それは、何かとても間違っているような。とても恐ろしいことのような、そんな気持ちがして。


そして、僕は途方に暮れる。
言い出すべきか、そうしないでおくべきか。その狭間でずっと悩みながら、ここまで来てしまった。


「ねえ、ゼル?」
「何だよ?」
「記憶って何だろうね?あっていいとは必ずしも言えないのに、ないととたんに怖くなる。」
「言ってることがよくわかんねえ・・・・。」
「うん。聞き流していいよ。
知りたくないようなことも、忘れてしまった方がいいようなことも、実際僕らの中から消えて行ってしまったとしても、それはなかったことにならないんだよね。」
「ま、そうだな。
記憶になくても、事実は存在するもんな。」
「ゼルはさ、忘れてることも知りたいと、そう思う?」
「俺ー?」


怪訝な顔をして、ゼルは僕を見返した。僕はそんなゼルに、ちょっとだけ笑った。ゼルは少し変な顔をした。


「俺だったら、知りたい、かな。」
「そっか。」
「知っていいことばかりじゃなくて、どっちか言ったら、多分知らなきゃよかったと思うことでも、それでも何も知らないままでいるよりはマシだと思うからさ。
痛みも何も、感じなくなったらオシマイだと思う。だから、痛みを感じてもそれはいいんだ。見ない振りをして逃げるより、ずっといい。」


ゼルはそう言った。その表情は、とても力強くて眩しくて。昔「よわむしゼル」とか言われてたなんて思えないくらい。
ーーーーーそしてゼルの姿は、僕にとてもたくさんの勇気をくれた。


逃げても何も変わらない。
むしろ前より、もっと悪くなったりするんじゃないか。それを、僕は知っている。
だから。僕は逃げない。
僕は、僕のしなければいけないことをする。


それは、例えようもなく辛いけれど。したくない、逃げてしまいたいと、僕のこころはそう叫ぶけど。
でも僕は頑張る。
誰だって怖いんだ。もし失敗しても、誰かが助けてくれる。そのことを教えてくれたスコールやみんなのためにも。


「怖くて逃げたくなっても、頑張ってふんばってたら強くなれるかなあ。」
「そうだな。」


僕がうーん、と伸びをしながら言った言葉に、ゼルもくしゃっと笑って頷いた。その笑顔は、僕が覚えている昔の彼のものとあまり変わらないものだった。


僕が見せる真実は、多分みんなにとってとても痛いこと。そんな目に会わせなくてはいけないことに、僕はやはり躊躇いを覚えるけれど。
それでも、僕は逃げない。
この、蒼い空と白い雲に誓って。

僕は、逃げない。


35.逃げない end.


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怖くても、ひとりじゃないなら大丈夫なんだ。