36.うたかた
(スコール×リノア 25歳)


ゆらゆら、とまるで心地よいまどろみのなかに溶けてゆくような。
そんな不思議な感情を、抱いた。


***


ふ、と仕事の手を休めた。気がつけば、結構な時間が過ぎてしまっているようだった。窓から差し込む光は、眩しいくらいな、痛いくらいな白い朝のそれではなく、どこか暖かくて柔らかな、午後の香りのするものだった。
今日は、自宅待機の日だった。査察官には、週に1日そういう日がある。その日は、これまでの調査でわかったことなどをレポートにまとめるのが主な仕事だった。このレポートがバラムに行き、そしてガーデン全体の統括をとることになる。昔とは違って数が増えた現在のガーデンでは、そうしなければとてもではないが目が行き届かなかった。


しばらくずっと同じ姿勢をしていたせいだろうか。身体が固まったような、そんな感覚を覚えて、俺はうーんと、伸びをした。ぼきぼき、と骨がきしむ。その音に、少しだけ苦笑してしまう。
そして、窓を開けてみた。今日はいい天気だったし、今の家は森を抜けた草原の中に立っていた。風を渡る空気の香りが、何とも言えず心地よいところだったから。


さあ、っとそよ風がカーテンを揺らしていく。そして、俺は。


庭で洗濯物を取り込む、リノアの姿を見た。


リノアはエプロンをして、長い黒髪はゆるくバレッタで止めていた。今日は強くはないが、ずっと風が吹いている日だった。降ろしたままでいるのは少しうっとおしかったのだろう。
それは、いつもの風景。
いつもの風景だったけれど。だからこそ。


とても、眩しいような、暖かいような。確かにそこにあるのに、とても遠いような。まどろみの中で見る、幽かな夢のような。
そんな気持ちを俺に、起こさせた。


風に翻る、白いシーツ。空気に踊る彼女の黒い髪。はためくエプロン。そして、全てを包む柔らかな、暖かなひかり。


ーーーーああ、これは、なんて。
なんて、まったきしあわせのけしきなのだろうか。


俺はその感情を把握して、何だか涙が出てしまいそうな、そんな気持ちに襲われた。
こころのどこからか、こみあげてくるものがある。それが、何だか熱くて仕方なかった。


何もかも、曇りなく幸せだなんてことはありえない。満ちたるものは、この世に存在することは出来ない。どこかしら欠けている、欠片の集まった世界。それが自分達の生きている世界だということを、俺は知っている。
だけど、もしかしたら、これが。これが、その、満ち足りた何かなのではないか。そういう気持ちを抱くことは出来る。
そして、今確かに、俺はそういう感覚を持っていたのだった。


ふ、と風がやみ、彼女が振り返った。
そして、俺に向かって微笑む。


「スコール、お仕事一段落したの?」


彼女の動きと共に、さきほどの全き世界は霧消した。だけど、ふわりと笑う彼女の姿が、いとおしくて。嬉しくて。だから俺は、完全じゃない世界の方がいいと、そう思った。
そう思えることが、嬉しかった。


「ちょっと休憩しようと思って。
今日、いい天気だな。」
「うん。洗濯物がよく乾いたよ。
じゃあ、お茶にでもしようか。スコールは、コーヒー?」
「ああ、サンキュ。」


ぱたぱた、と洗濯籠を抱えて、リノアが家に入る音がした。俺はその音に、ふっと笑みを零した。


満ち足りた世界は、まるでうたかたのようなもの。あっという間に消えていく。
だけど、不完全だけど幸せだと、暖かだと感じる世界は確かにここにある。
だから、それで、いいんだ。
それが、いいんだ。


36.うたかた end.


*******************

それは、まるでまぼろしのような。