41.今できること (ザウアー大統領補佐官) 僕には、ずっと憧れている人がいる。 忘れなくてはいけないのかもしれないが、とてもそんなことは出来そうにもないほど囚われている。 僕は確かに、そのひとに恋をしていた。 *** 朝、大統領執務室に入るときに、僕はいつもひとつ、深呼吸をする。それは、これから会うひとのせいだ。 今日も、ひとつ息を吸い込んでから、扉をノックした。 「おはようございます、大統領。」 「おはよう、ザウアー補佐官。開いてるわよ。」 扉の向こうから、綺麗なはきはきとした声がして、僕は扉を開けた。大統領執務机の後ろにある、大きな窓から差し込む朝の光が眩しい。そのひとは、窓から景色を眺めていたようだったが、僕が入室すると共に振り返った。そして、綺麗に笑う。 僕は、ドキドキする気持ちを抑えながら、いつもどおり今日の予定を読み上げた。 「本日は、15時よりエスタ共和国のレウァール大統領とのオンライン面談がございます。」 「他には?」 「午前中は、党三役との会合、これは昼食会も兼ねてございます。午後3時までは、外務大臣との打ち合わせがございます。」 「そう。ありがとう。」 そう言うと、目の前にいる端麗な人はうーん、と伸びをした。そんな仕草は、まるでただの普通の女性のようで、僕は思わず苦笑する。そんな僕に、大統領は内緒よ、という風に笑った。 この人はとても綺麗なひとなのに。とても頭がよく、仕事もでき、そして今はこの国の最高権力者だというのに、それ以上に、普通であろうとしている人だった。彼女の信念は、みんなの国をみんなで守ること。国政は、一部の特権階級だけのものではない、ということだった。彼女ほど、それを実践している人も珍しかった。 そして、彼女は。 生まれ持った美貌もあるのだろうけれど、それ以上に暖かくて優しかった。 彼女だから、きっとちぢに乱れていたこの国を纏め上げる事が出来たのだろう。 「コーヒーでも淹れましょうか。」 「あら、嬉しいわね。私、貴方の淹れるコーヒー好きよ。」 「簡単ですよ。」 「その簡単、っていうのが難しかったりするのよねえ。」 大統領はそんなことを言って首をすくめた。 僕はその大統領の笑顔を見て、少し胸が痛くなった。けれど、これは仕方ない。この人を好きになったときから、こんな痛みは覚悟していたのだから。 僕は、知っている。 大統領が、いまだに机の端に一人の男の人と一緒に写っている写真を飾っていることを。その写真は、かなり昔に撮られたものらしい。少し色あせている。写真の中で笑う昔の大統領は、とても綺麗で可愛らしい笑みを浮べて隣の男を見ていた。僕は見たことのない、表情だった。 そして、今でも。今でも大統領は、その写真を懐かしげに眺めていたりする。切ないような懐かしいような、暖かいような寂しいような、そんな表情を浮べて。 だから、僕には分かっていた。 大統領は、まだこの写真の男を忘れていない。きっと、今でも好きなのだろうと。 聞かなくてもわかってしまっていた。 その男は、たまに大統領に請われてお茶を飲みに、大統領府にやってくる。過ぎ去った年月は、男にも容赦なく降り積もっていたけれど、それでもとても素敵で凛とした美しさをいまだに持っていた。写真の中でもお似合いだったが、今でも十分お似合いだった。穏やかに笑う姿も、少し口数は少ないが控えめに話す言葉も、とても綺麗な人だった。 僕でさえ。大統領の事が好きな僕でさえ、うっかりすれば見とれてしまうほど。 でも、それでも僕は諦め切れなかった。諦められたら良かったのに。そうしたら、痛みを感じないでもすんだのに。 それでも、きっとそうではないのだ。 そうではない。 痛みのない恋なんてない。簡単に諦められるのだったら、それは恋ではないんだ。 彼女を思って、痛みを感じても。 それ以上に、彼女の笑顔を見て嬉しいと感じる僕がいる。 それでいいではないか。 丁寧にネルで落としたコーヒーを大統領に差し上げた。大統領は嬉しそうに香りを嗅ぐ。その仕草が何だかとても幸せそうなそれで、僕の心も温かくなった。 「これ飲んだら、お仕事始めましょうね、シエラ・マクリーン大統領。」 「わかってます、コンスタンティン・ザウアー第一大統領補佐官。 ・・・・・やあねえ、貴方まだ若いのに、まるで爺やみたいよ。」 「大統領の仕事を円満に行わさせるのが僕の仕事ですから。」 「可愛くない坊やね。」 「可愛くなくて結構。」 僕がにっこりと、大統領のイヤミをも笑い飛ばすと、大統領はむむうとした顔になった。それは、いつも大人の女性らしい大統領とは違って、まるで少女みたいだった。僕は、ほんの少しだけ、ご褒美をもらったかのような気持ちを抱いた。 今は、好きだとは言わない。 僕は、今僕に出来ることをする。 いつか、僕に気がついてくれればそれでいい。 41.今できること end. ******************* あなたを好きになったときに、覚悟していたことだったから。 |