あんぎゃ、あんぎゃ、と我が子の泣く声がした。ああ、おっぱい欲しがってるんだわ。そう意識は認識するけれど、身体が中々まどろみから浮上しない。起きなくちゃ、と叱責する声は、まるで木霊のように遠くて儚い。
 やがて、さらり、毛布がめくられ、冷たい空気が一瞬だけ入り込んだ。
 火がついたかのように泣く声の合間に、かちゃかちゃと小さな音がする。それに気づいて、ミチルはガバリと目を覚まし起き上がった。


「いいよ、寝てなよ。ミドリのミルク、俺やっておくからさ。」


 いつも、明るく元気な夫がそっと声をかける。ミチルはやっぱりそんな訳にいかない、と起き上がろうとしたけど・・・・・・、ゼルにとん、と優しく肩を押され、しっかりと布団でくるまれた。彼は馴れた手つきで哺乳瓶をゆすって粉ミルクを溶かすと、そっと自分の腕の内側にひとしずくミルクを垂らす。ミチルはそれを、布団の中からじっと見つめた。


「ん、いい感じ。」


 ゼルはそう言って微笑むと、ベビーベッドから泣く赤子を抱き上げた。そっと哺乳瓶を含ませると、赤子は待ってましたと言わんばかりに夢中で吸い付く。いつもと違う哺乳瓶の乳首に違和感を感じたのか、一瞬眉を顰めたけれど、ゼルの大きな掌で優しく背中を擦られ、安心したのだろう。大人しくこくこく飲みはじめた。


「ごめんなさい。起きるのが遅くなっちゃって。」


 しん、と静まり返った夜中だ。上の子どもたちは別部屋で寝ているとはいえ、普段どおりの声を出すのは気が引ける。ミチルが囁くようにゼルに話しかけると、ゼルは微笑みながら首を振った。


「夜は授乳で、昼間はチビたちの世話あるもんな。疲れてるんだよ。俺がいるんだから大丈夫。気にせず寝てな。」
「・・・・・・ありがとう。」


 確かに、疲れていたのだろうと思う。この一番下の末っ子は女の子だからか、一回に乳を飲める量が少ない。上の子たちのように、たっぷり飲んでたっぷり寝るということはなかった。もうじき1歳になるけれど、離乳食も始まっているけれど、夜中の授乳は3回はある。昼間ずっと4人の子どもの世話や家事にあけくれて、さらに夜の睡眠も細切れの日々がもうずっと続いていた。
 でも、とミチルは思う。
 それでも、起きなかったのは私の失態だわ。
 ゼルだって、仕事もあるし、忙しいのに。


 やはり、ミドリはすぐにミルクを飲むのを止めたらしい。けふ、と小さなげっぷが聞こえて、ゼルのとんとん、と背中を叩く仕草に眠気を誘われたのか、あっという間にまた眠りに入ってしまった。ゼルはそっとミドリをベビーベッドに下ろして、ベッドに潜り込んできた。


「うー、あったけえ。」


 まるで子猫のように、ゼルは布団の中に丸くなった。暦の上では春だとしても、まだまだ外の気温は冬と変わらず冷たい。ましてや今は夜中、辺りはしんしんと冷えていた。
 ミチルはそっと手を伸ばし、ゼルを抱き寄せた。きん、と冷えた感触がする。少しでも温まって欲しくて、身体ごとゼルに擦り寄った。
 ゼルが、驚いた目でミチルを見た。


「寒くねえ?」
「寒いけど。でもすぐに温まるから平気。ゼルこそ、ごめんなさいね。毎日仕事で疲れてるのに、ミルクの世話までやらせて。」


 眉を寄せてそうミチルが言うと、ゼルはぷはっと笑って、それからぎゅうっとミチルを抱き寄せた。一瞬詰めたい空気に包まれたかのように感じてミチルは身体を硬くしたが、やがてほんわかと伝わるゼルの体温にふわりと力が抜けた。


「ごめん、なんて言うなよ。チビたちの世話はさ、俺たち2人でやるもんなんだからさ。」
「・・・・・・ん。」
「ほら、子どもは1人じゃ作れないだろ?だから世話も、1人じゃ出来ないようになってんのさ。」
「・・・・・・ゼルのえっち。」


 茶化したように言ったゼルに、ミチルは頬を染めて、それから上目遣いに睨んだ。ゼルはおかしそうに笑っている。


「何でも気にしぃなのは相変わらずだけど、でも言うようになったな、ミチルも。」
「ゼルが、そういう風にしたんでしょ。」


 むうっと口を尖らせてミチルがそう言うと、ゼルもにやにやしながら言葉を返した。


「そうだよ。2人で一緒にいて、暮らして、お前も俺も変わったんだよ。」
「ゼルも変わった?」
「変わっただろ。俺、少なくとも昔は、こんな風にエロい軽口は叩かなかったぜ。」
「やだ。私のせいでえっちになったとか言うの?」
「そ。ミチルのせい。」


 心外だ、と声を上げたのに、ゼルときたら嬉しそうに笑って、それからちゅっとキスをしてくる。身体は、2人くっついているせいか温かくなってきてはいるものの、唇はやはり冷たくて。ミチルはそれすら暖めてあげたくて、もう一度キスを返した。


「やっべ。ドキドキする。」
「何が?」
「何か。初めてしたときみてぇな。・・・・・・って俺、何言ってんだかな。もう4人も子どもいるってのに。」
「何人いても、変わらないんじゃない?だって、私、ゼルといてドキドキしなかったことなんてないもの。何人子ども産んでも、やっぱりドキドキするもの。」


 そう。ただ好きで、傍にいけたらいいな、話出来ればいいなとそんな些細なことを希っていたあの頃も。初めて夜を過ごしたときも。今子どもの世話に明け暮れている、このときだって。
 いつだって、私はゼルにドキドキするわ。
 何人も子どもがいたって、おばさんになったって。きっとまだ子どもだった頃に抱いていたドキドキが消えてしまうことなんてない。


 ミチルの言葉に、ゼルは顔を真っ赤にして。それから「反則だ」と小さく呟いた。


「明日。明日、覚えてろよ。」
「え。」
「今日は疲れてそうだし、もう4時だし、このまま寝るけど。次の晩は、覚悟してろよ。」


 おやすみ、そう言うとゼルは背中を向けて寝てしまった。ミチルはきょとんとして、それからゼルの言葉の意味をゆっくりと理解して、小さく「はい。」と囁いた。



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